かがやき7号 500歳野球誕生のキッカケA
                 大仙市野球連盟神岡支部 理事長 伊藤久



その頃(昭和五十三年)、高橋政泰氏は会社重役として東京支社長等を努め

多忙をきわめており、町を留守にすることが度々でした。しかし秋田県野球協会会

長として県野球界のリーダーとして活躍されておられることは同氏の地元同級生

達にとっては誇りであり自慢でありました。秋田中学校時代の三回にわたる甲子

園大会への出場や東京農大での一部昇格の原動力となったこと、帰県してからは

東肥野球部の全盛時代を築きプレーイングマネージャーとして活躍されたと言う様

な輝かしい球歴の同氏と一緒にプレイすることは、憧れのスタープレイヤーと野球

が出来る子供心と同じだと思われました。その後、練習をお手伝いし側面から見

ていても、童心に帰り身体全体で楽しんでいることが強く感じられ、【神宮寺の爺

さん】方の野球に対する思い入れは半端でなく、これが伝統とか歴史というものか

なあと思えたし、既存のルールに一寸した遊び心を加えれば高齢者でもこんな野

球の楽しみ方も出来ることも確認した二十九年前でした 。

 

五十四年に始まった郡500歳野球大会は、既存の学童野球ルールに、【50歳

〜55歳まで3イニング、56歳以上はフリー】そして【選手交代は自由】の二項目を

加えただけでした。50歳〜55歳までは帽子に黄色のリボン、56歳以上は赤リボ

ンを付けて試合していただいたことも懐かしい思い出です。投手交代については、

大会当初は55歳までは1回〜3回、56歳以上はフリーと解釈しておりましたが、

これを覆したのは船川OBチームでした。第何回大会か不明ですが1回、3回、5

回を若手の55歳までの投手を起用し(アウト9の解釈)、対戦チームからそんな投

手交代は大会規則違反とクレームがつき、大会委員長(魁事業局長伊藤彊氏)が、

今風に言うと、「船川OBの解釈は想定外だが間違っていない。」と裁定し、それ以

降の投手交代(アウト9)が主流となった次第です。    つづく

     
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                 大仙市野球連盟神岡支部 理事長 伊藤久   

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